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岸田國士
劇作家,小説家,評論家。東京生れ。父庄蔵が軍人であったため幼年学校から士官学校を出て少尉に任官,1914年軍職を捨て,16年東大仏文科選科に入学した。20年よりパリ留学,ビユー・コロンビエ座のJ.コポーのもとで演劇を学んだ。23年帰国,翌年戯曲《古い玩具》でデビュー,つづいて《チロルの秋》(1924),《ぶらんこ》《紙風船》(ともに1925)を発表して一躍劇界の寵児となり,以後10年間に《牛山ホテル》はじめ50余編の戯曲を書いた。

wikipedia:岸田国士

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人物
田代三夫
同ぬい子
劉鯤
瑩芳


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舞台は、横浜郊外にある田代三夫の家の応接間。
外人の設計になる瀟洒なヴィラを、特別の事情で安く借り受け、愛妻ぬい子と二人きりで、結婚後三年の今日、まだ蜜月の生活を楽しんでゐる田代は、永く海外で暮した結果、何処か日本人離れのした神経の鈍さと、それを補ふ感情の濃やかさがある。
細君のぬい子は、生粋の横浜ツ子で、両親は、外人相手の土産物商をしてゐたのだが、彼女の結婚後は、店を人に譲り、鶴見辺に隠居所を建てゝ、豊かな余生を送つてゐる。
田代は現在、南洋貿易を専業とする某商会の庶務課長で、三十六にして既に頭髪の半ばを失ひ、十二違ひのぬい子は、それがために、思ひ切つた若作りのできないことが唯一の憾みである。
正月のある日の午後。
田代は、ヴェランダで新聞を読んでゐるが、やがて、応接間へはひつて来る。

田代  僕はやつぱり家(うち)にゐよう。なんだか、急に用事ができさうだ。ほんたうなら一寸店へ顔を出すところなんだが、家にもゐないとなると、まさかの時困るよ。
ぬい子  (隣りの部屋から下着だけの半身を出し)あら、そいぢや、あたしは……? 折角、もう用意をしてるんぢやないの。
田代  だから、お前さんだけ行つて来ればいゝぢやないか。さうおしよ。ね。お父さんやお母さんは、結局、お前さんの顔が見たいだけなんだ。御年始はもうすんでるんだから、またゆつくりした時遊びに行くつて、さう云つてくれ。
ぬい子  つまんないわ。あんたと一緒だからと思つて、こんなにおめかしをしたんぢやないの。
田代  そんな駄々をこねるもんぢやない。女がおめかしをして損になつた例(ため)しなんかない。
ぬい子  それより、電話でお店の様子を訊いてみたらどう?
田代  用事は何(な)ん時起るかわからないんだ。休みの後(あと)つていふものは、臨時の用件が多いんでね。
ぬい子  そんなら、ちやんと朝から、お店へ出てれば文句はないんだわ。今日鶴見へ行かうなんて云ひだしたのは、あんたなのよ。
田代  それやわかつてるさ。あゝいふ案内も来てるし、お前さんも楽しみにしてたんだから、出来ればさうしようと思つたんだ。しかし、考へてみると、近頃、少し、怠け過ぎてるからね。
ぬい子  ぢや、あたしも、今日はよすから、これからお店へ行つてらつしやい。
田代  そんなことしなくつてもいゝさ。お前さんは行つておいでよ。僕は僕でいゝやうにするから……。
ぬい子  それより、あんたこそ、先へお出掛けなさいよ。あたしはあたしで勝手にするから……。
田代  怒つたんだね。よし、そんなら、よし……。
ぬい子  なにが、よしなの? (外套をひつかけて出て来る)あんた、少し、変よ。あたしを追ひ出しといて、一体、後(あと)でどうしようていふの?
田代  後でどうする? どうもしないさ。そんなにぢろぢろ人の顔を見るもんぢやない。第一、この顔になんにも書いてありやしないよ。
ぬい子  書いてある。書いてある。ちやんとわかるわ。
田代  どう書いてある?

長い沈黙。

ぬい子  あたしが出た後で、お店でなく、どつかへ行くつもりなんでせう。どつかで、誰かと会ふ約束をしたんでせう。
田代  そんなら、店へ行つて、その足で会ひに行くさ。
ぬい子  あたしを家に置いとくとあぶないから、鶴見かどつか、遠くへやつとかうと思ふんでせう。それには、自分も行くやうな顔してないと、人がいやだつて云ふと思つて……。
田代  そんなら鶴見まで送つて行つといて、一人で引返して来るよ。
ぬい子  それだけの手数(てすう)をはぶくつもりなのよ。
田代  そんなに心配なら、僕の帽子と靴を、戸棚へしまつて、鍵をかけて行き給へ。
ぬい子  スリツパを穿いてだつて行けるわ。
田代  帽子のことは云はないね。
ぬい子  いゝぢやありませんか。あんたは禿がお得意なんだから……。
田代  別に得意でもない。たゞ、お前ほど気にしないだけだ。
ぬい子  そいぢや、折角髪まで結(ゆ)はせたんだから、一人で行つて来るわよ。
田代  あゝ、行つといで……。

ぬい子は、諦めて部屋にはいる。

田代  僕が家にゐるかどうか、向うから電話をかけて御覧。僕の声は覚えてるだらう。

(彼は、さう云つてるうちに、だんだん焦(い)ら焦(い)らしはじめる。部屋中を歩きまはる、時々額に手をあてゝ考へ込む。)

ぬい子が、いきなり、飛び出して来る。今度は外套も付けず、露はな両腕を胸にあてゝ、威嚇するやうな身構へをする。

ぬい子  あんた、誰かを待つてるんでせう。
田代  誰を……?

長い沈黙。

ぬい子は、夫のとぼけた顔を尻目にかけて、部屋へひつ込む。やがて、また、不意に顔を出す。

田代  なんだい。
ぬい子  なんでもない。(首をひつこめる)

今度は、田代が部屋の戸を開けに行く。

ぬい子  あら、失礼ぢやないの。
田代  早くしろよ。日が短いんだぜ。
ぬい子  (洋服の襞を直しながら現はれる)
田代  自動車を呼んで来てやらうか。
ぬい子  (長椅子に腰をおろし)隠すならいゝわ、隠したつて……。その代り……その代り……。
田代  泣くやつがあるかい。なにを隠してるつていふんだ。
ぬい子  隠してるから隠してるつていふんだわ。そんなことぐらゐわからなくつてどうするの。
田代  お前さんは恐ろしい女だなあ。それとも、おれは硝子(がらす)みたいな男かな。
ぬい子  そつちよ。
田代  なんにも隠しやしないよ。これだけは、お前さんが知らずにゐた方がいゝと思つたまでだ。
ぬい子  それ御覧なさい。
田代  だから、そんなに云ふなら、話してやるよ。たゞ、驚いちやいけないよ。
ぬい子  待つて……。あたしがそんなに驚くことなの?
田代  驚くだらうと思ふね。驚いた方が自然だね。
ぬい子  あんたは平気なことなの?
田代  それが、さうは行かないんだ。
ぬい子  さうでせう。昨夜(ゆふべ)から、あんたはどうも変だわ。
田代  度を失つてる形だね。
ぬい子  そわそわしてるわ。
田代  床(とこ)へはひる前に、わざわざ靴の紐を結び直すなんか、生れてから、昨夜が初めてだ。お前さんの云ふことは、半分しか耳へはひらない。
ぬい子  耳はどうだか知らないけれど、眼附も丸で違ふわ。
田代  それやさうだらう。僕にしてみれば、生きるか死ぬかの問題だ。
ぬい子  そんな大事件なの?
田代  うん、大事件だ。
ぬい子  それを、あんた一人で心配してるの? あたしには相談してくれないの?
田代  さう云つてくれるのは有りがたい。だが、これだけは、さつきも云つた通り、お前さんの耳に入れずに済まさうと思つたんだ。
ぬい子  お店のことで、何か間違ひでも起したの。
田代  そんなことならなんでもない。店をやめちまふまでのことだ。
ぬい子  だから、お金のことなんかで……。
田代  違ふ。そんなら、家(うち)の中をうろうろしてる暇(ひま)に、外をあつちこつち駈け廻るさ。
ぬい子  誰か、人が来ることは来るんでせう。
田代  かうなればしかたがない。云ふだけは云つとくよ。あとは僕に委(まか)しときなさい。お前さんは、兎に角、家(うち)にゐない方がいゝ。早く鶴見へ行きなさい。
ぬい子  (極度の不安に襲はれ)わかつた。
田代  わかつたか。
ぬい子  あの人が来たのね。
田代  さうだ。劉(りう)が日本へやつて来たんだ。
ぬい子  (愕然として起ち上り)あゝ!
田代  それ御覧。そんなに驚くぢやないか。
ぬい子  (急に田代の腕に取り縋り)あんた、どうしませう……。ほんとにどうしませう。
田代  しかたがないさ。ぶつかつてみるだけだ。
ぬい子  どうして、それがわかつたの。
田代  昨日、店へ電話がかゝつたんだ。僕は出なかつたが、取次のものに、明日夕方行くから家で待つてろと云つたさうだ。
ぬい子  人違ひぢやないの?
田代  南京(なんきん)から来た劉鯤(りうこん)と云へば、ほかに誰がゐる。
ぬい子  なにしに来たんでせう。
田代  日本へ来たのは別に不思議はないさ。あの当時の様子では、また出て来られるとは思はなかつたが、その後、事情がどう変つたか、音信不通の間柄で、わかる筈がない。
ぬい子  こゝへ来るとすれば、やつぱり、あの問題でせうね。
田代  それをどう問題にするかが寧ろ問題だ。先生は、日本にも長くゐたんだから、まさかわれわれの気持がわからない筈はないと思ふんだが、支那人つていふ奴は、何処か執念深いところがあつて、ことによると、思ひ切つた解決を目論(もくろ)んでゐやしないかとも考へられるんだ。
ぬい子  さうよ、普断はおとなしさうに見えて、なんかつていふ時には、いつでも、薄気味の悪い調子が出るのよ。はじめ、あたしを呉れつて云ひ出した時なんか、断(ことわ)ればどんなことをされるかわからないつて気がしたわ。
田代  そん時、断つといたら、こんなことにはならなかつたんだ。
ぬい子  でも、母さんが、とても乗気だつたの。なにしろ、お金は唸るほどもつてるし、家柄はあつちでもいゝつて云ふんだし、日本の大学は出てるし、それに父さんも、あたしに直接話を持ち出さなかつたつていふところが、すつかり気に入つたんだわ。
田代  で、結局、お前さんも承知したんだから、今更、何を言つたつてはじまらないさ。
ぬい子  だから、はじめは、すぐにうんとは云はなかつたのよ。
田代  僕は、南京で先生と親しくなつた当座、そんな話は、丸で知らなかつたんだ。ところが、僕が日本へ帰るつていふ前の晩だ。先生は、僕を晩飯(ばんめし)に呼んで、是非頼みたいことがあると云ふんだ。
ぬい子  (眼を伏せる)
田代  なんだと云ふと、実はこれこれで、日本に許嫁(いひなづけ)がある。三ヶ月といふ約束で、遺産の整理かたがたちよつと帰つて来たんだが、なにしろ、土地の管理人を呼び集めるだけで一月はかゝるといふ始末で、その上訴訟事件に引つかゝつて、三ヶ月といふ約束は、もう過ぎてしまつた。手紙だけでは、相手も不安心だらうから、君が帰つたら、一つ、本人を始め両親にも会つて、よく事情を話してくれ。決して約束を履行しないつもりぢやない。それどころか、一日も早く式を挙げに帰りたいと思つてゐる。もうあと三ヶ月待つてくれ。
ぬい子  その三ヶ月が、また駄目だつたんだわ。
田代  いや、しかし、僕が、はじめてお前さんの家へ行つた時、劉君の言(こと)づけだけを伝へて、それで満足すれば、なんのことはなかつたんだ。つまらない用事にかこつけて、その後、しげしげと足を運んだのがわるかつた。帰りが、もうあと三ヶ月延びるといふ知らせがあつた時、僕たちは、内心、ほつとしたもんだ。
ぬい子  やつぱり、あたしは、あの人を愛してなかつたんだわ。
田代  それにしても、男として、友人の信頼を裏切るやうな真似はできない。僕は、決心して横浜を去らうとした。いや、お前さんのそばを遠ざからうとした。
ぬい子  あたしが許さなかつたのね。
田代  僕は、だから、虜(とりこ)も同然だ。しかし、罪はお前さんばかりにあつたんぢやない。
ぬい子  もちろんよ。だけど、あたしが、劉さんに出した手紙、あんたも読んだわね。
田代  その返事はたうとう来なかつた。黙つてゐるのは承諾のしるしとばかり、どしどし事を運んだのは、今から考へてみると、少し乱暴だつた。
ぬい子  あたしたちを、それや恨んでるつていふ話、誰から聞いたんだつけ……?
田代  南京領事館の落合(おちあひ)さ。君の手紙をもつて、先生のところへ呶鳴り込んだつていふんだ。日本人は見下げ果てた人種だつて云つたさうだ。
ぬい子  あたし、今だから云ふけど、あの人があたしを殺しに来た夢を、何度見たか知れないわ。
田代  僕も今だから云ふけれど、かうしてゐて、一日も暢気な日つていふのはなかつたんだ。あの男は、話によると香港(ホンコン)で伊太利(イタリー)の士官と決闘をしてるんだよ、日本に来る前だ。中学の学生の頃だよ。
ぬい子  へえ、ちつとも知らなかつたわ。
田代  相手の奴はピストルで、先生は短刀さ。それで、相手が喉をやられたんだよ。グサッとね……。

この時、玄関の呼鈴が鳴る。両人、ギクリとして顔を見合はす。田代はぬい子に、奥にはいれといふ合図をする。ぬい子、不安げに隣室のドアを開け、姿を消す。
また呼鈴が鳴る。田代、意を決してその方に行く。
やがて、劉鯤、支那服にて現はれる。
顔は純粋の東洋型であるが、色は白く、眼は鋭く、癖のある唇に意味ありげな微笑を泛べたところ、凄味は十分である。田代が、その後からはひつて来る。何か云はうとするが、舌が硬ばつてゐるに違ひない。たゞ、空ろな眼が、頻りに動いてゐる。

劉  この家(うち)は、なんだか見覚えがあるよ。永く住んでるのかい。
田代  いや、うん、丁度三年目だ。
劉  結婚と同時だね。細君はゐるかい?
田代  うん、いや……いま一寸……。
劉  ゐないのかい?
田代  ゐるにはゐるが……いま、その……。
劉  先へ、細君に会はしてくれ。
田代  さうか。(渋々隣室にはいる。やがて、ぬい子をかばふやうにして現はれる。ぬい子は顔を伏せてゐる)
劉  やあ、ぬい子さん、しばらく……。
ぬい子  ……。
劉  僕が、かうしてやつて来たことを、意外にお思ひですか?
ぬい子  (殆んど聞き取り難き声で)いゝえ……。
劉  しかし、びつくりなすつたでせう。
ぬい子  いゝえ……。
劉  びつくりしたといふよりも、怖ろしくお思ひになつたでせう。
ぬい子  ……。
劉  (田代に)君は、しばらく座を外(はづ)してゐてくれ給へ。
田代  僕かい?
劉  しばらく、君のゐないところで、奥さんに話したいことがあるんだ。
田代  (躊躇した後隣室へはひらうとする)
劉  そこぢや話声が聞えるだらう。すまないが、外へ出てゐてくれ。

田代が、しぶしぶ、裏の方へ歩いて行くのを、劉とぬい子とが見送つてゐる。

劉  僕が、何時かあなた方の面前に現はれるといふことは、あなたも覚悟しておいででしたらうね。
ぬい子  えゝ……。
劉  そこで、かうして、僕が今、あなたの前にゐます。なんのためにゐるんでせう?
ぬい子  ……。
劉  あなたは、僕になにかおつしやることはありませんか?
ぬい子  なんにも申上げることはありません。みんなおわかりになつてゐる筈です。
劉  それは別問題です。あなたとお別れして以来、僕はまだ、あなたの心変りについて、なに一つ意見を述べたことはありません。
ぬい子  しかし、それは……。
劉  あなたが、若し、僕との約束を忘れておいでにならなければ、僕があなたに、何を求めてゐるか、それがおわかりの筈です。
ぬい子  でも……。
劉  今迄のことは、今迄のことでよろしい。過ぎ去つたことは、なんと云つても取り返しがつきません。しかしです。こゝで、あなたに、十分冷静になつていたゞきたい。僕が、これから、何を云ひ出しても、うろたへちやいけませんよ。
ぬい子  (また顔をあげる)
劉  さうです。僕の眼を御覧なさい。僕は、男の名誉と、自分の熱情にかけて、あなたに要求します。――僕との約束を実行して下さい。
ぬい子  ……。
劉  わかりませんか。僕と結婚して下さい。そして、明日(あす)、一緒に、支那へ発ちませう。
ぬい子  そんなこと……。
劉  できないとおつしやるんですか。なぜです?(間)
ぬい子  なぜつて……。
劉  田代君といふ夫があるから……。さうですね。
ぬい子  (黙つて眼を伏せる)
劉  それはなんでもないでせう。日本の法律は、幸ひ、かういふ場合を予想してゐます。
ぬい子  (また眼をあげる)
劉  離婚なさい。
ぬい子  (驚いて)え?
劉  田代君とお別れなさい。
ぬい子  いゝえ、それはできません。
劉  出来ない筈はないでせう。日本の女性は、たしか、さういふ分別を弁(わきま)へてゐる筈です。
ぬい子  いゝえ、それはできません。それだけは、なんとおつしやつても……あたくしにはできません。
劉  よろしい。そんなら、僕は、田代君の手から、あなたを奪つてみせます。
ぬい子  (キツとなり)どういふ風にしてですの? あの人が、それをさせると思つてらつしやるんですか。

この声を聞きつけて、田代が駈け込んで来る。

田代  なにをするんだ。(が、劉の燃えるやうな眼に射すくめられて、二三歩、後にさがる)
劉  (急に調子を和げ)僕は、今、奥さんにある提議をしたんだ。奥さんは承知してくれない。この上は、止むを得ない。君に要求する。――ぬい子さんを、僕に返してくれ。ぬい子さんを、君の手から自由にしてくれ。
田代  僕は、君から、どんな刑罰を与へられても、それは甘んじて受けるつもりでゐる。しかし、その要求だけは、勘弁してくれ。
劉  しかし、僕がかうして遥々日本へ来たのは、それ以外に目的があるだらうか。君は、今日、僕が来るのを待つてゐた筈だね。僕が何か、ほかの要求をするとでも思つてゐたのか?
田代  僕は、自分だけで、君の出方を想像してゐたことはゐた。それは、二つのうちの一つだと思つてゐた。
劉  云つてみ給へ。
田代  先づ、第一に、君の人物から推して、――同時に、これは僕の唯一の願ひだつたのだが――君が笑つて僕に手を差し出してくれることだ。
劉  あの永い苦しみの後でか? 断じて、そんな気持はないよ、僕には。それから、もう一つといふのは?
田代  もう一つは、これは、悲しむべきことだが、君が僕に命を要求することだ。
劉  君の命……? そんなものは欲しくない。第一、君の命を貰つてどうするんだ。しかしだよ。君が若し、ぬい子さんをどうしても手放さないといふなら、これやしかたがない。
田代  (身構へる)
劉  待ち給へ。三年前、あの夏の蒸し暑い晩、君の手を握りながら、くれぐれも頼んだ僕のあの心中を、もう一度、こゝで見せられゝば見せたいのだ。ぬい子さんの手紙は、僕を気狂ひのやうにした。いや、実際、君たちを殺してしまはうとさへ思つたのだ。待ち給へ。僕も、しかし、少しは教育を受けた男だ。君たちにも、君たちの道徳がある筈だ。僕は、今日まで自分を制し、君たちの態度を観察してゐたんだ。しかし、もうこれ以上、黙つてゐるわけに行かない。僕は、僕がまだ生きてゐるといふことを、君たちに見せなけれやならない。今、かうして、君たちの眼の前にゐる僕は、決して、三年前の僕と変りはないんだ。今ぬい子さんが、誰を愛し、誰を愛してゐなからうと、そんなことは訊く必要がない、僕は明日(あした)、ぬい子さんを連れて、もう一度、あの海を渡るのだ。
田代  僕は、命にかけて、ぬい子を護つてみせる。
劉  命にかけて……? 面白い。君がさう出るなら、僕にも考へがある。決闘をする気だね。
田代  え?
劉  決闘をする気だらう?
田代  まあ、さうだ。
劉  僕に決闘を挑(いど)むんだね。
田代  挑みはせん。
劉  挑んだのも同様だ。よし、承知した。
ぬい子  (田代の袖に縋る)あなた……。
田代  しかたがない。ほかに解決の方法はない。
ぬい子  いけません。そんなこと、あたしが承知しません。
劉  あなたは、もう、なんにも口を出す権利はない。男同志の解決に総てをお委せなさい。では、何処でやるね?
田代  何処でもいゝ。
劉  外へ出ようか?
田代  今すぐかい?
劉  立会人もいるまい。
田代  明日にしてくれ。明日の朝にしてくれ。
劉  その必要はなからう。さ、用意をし給へ。(時計を見て)今が、三時五分前……。もう五分間待たう。僕は、短刀を持つてる。君の武器は、なんでも御勝手だ。
田代  (決然と)おい、ぬい子、僕の部屋から、帽子とピストルを持つて来い。
劉  帽子はいらんだらう。
田代  帽子はいゝから、ピストルを持つて来い。よし、自分で取りに行く。
ぬい子  (田代の洋服をつかみ)いけません。ねえ、劉さん。この人の命を取るかはりに、あたしを殺して下さい。あたしはどうなつてもいゝんです。ねえ、後生ですから、あたしを殺して……(泣きながら、今度は、劉の足下に跪く)

この時、玄関の呼鈴が、けたゝましく鳴り響く。
田代とぬい子が、顔を見合はせてゐる問に、劉は、悠々と玄関に出て行く。
やがて、一人の支那婦人を連れて入つて来る。

劉  先づ、紹介をしておかう。これは瑩芳(けいはう)と云つて、僕の家内(かない)です。
田代  えツ? 君に……細君が……。
劉  だからさ、君たちが離婚をして、ぬい子さんが僕のところへ来るにしても、僕の方では、この先生に暇を出さなけれやならないわけだ。ところが、これが頗る難問題だ。
瑩芳  シヤーオー ピンハオメイユーフーリヨー
田代  なんてね?
劉  実際、それは難問題だと云ふんだ。なるほど、さうだらう。話をしなければわからんが、ぬい子さんが君と結婚するといふ話を聞いて、それこそ日夜煩悶をしてゐた僕を、心から慰(なぐさ)め労(いたは)つてくれたのは、当時僕の秘書として働いてゐたこの瑩芳なんだ。(そつちを顧みて)ウワンニヨイプー
瑩芳  リヤンヤーオ
劉  これで日本語は一言もわからないんだ。今、僕たちは、久々で会つて、非常に睦(むつま)しい話をしてると思つてるんだ。そこで、この先生の真心(まごゝろ)が、次第に僕の傷(きずつ)いた心を捉へ、僕はまた再び生きる悦びを感じはじめた。二人は、目出度く結婚をした。それが二年前だ。
田代  ふん。
劉  相思相愛の結果が、不幸を齎(もたら)す道理はない。
田代  おほきに。
劉  二年の月日は夢のやうに過ぎた。劉夫人は、現在身重(みおも)らしいんだ。
田代  それはそれは……。
劉  南京(ナンキン)は、知つての通り気候も悪いし、この際、保養かたがた観光を兼ねて、日本の温泉巡りを思ひ立つたわけだ。そこで思ひ出したのは、君達のことだ。自分の幸福な結婚生活を、しみじみ味(あぢは)ふにつけて、君達は、今、どんな気持ちで暮してゐるだらう。さぞ僕のことを考へて、何時までも晴々しないことだらう。出来れば、不愉快な記憶をお互に忘れ、その上、昔の友情を取戻すことができたらと、少しセンチメンタルだが、まあ、あからさまに云へばそんな動機で、かうしてこゝへやつて来たんだ。
瑩芳  シンフオーライチユータオミヤンナー・トーレンナンキン。
劉  君たち二人で、是非、南京(ナンキン)へ来てくれと云つてる。
田代  やあ、ありがたう。
劉  しかし、考へてみると、僕が突然、君たちの前に現はれて、過去を一切水に流さうと云つたところで、君たちに取つては、それほど有難くもないだらうと思つてね。それに、これは僕流の潔癖さといふか、迷信といふか、現在の気持に到達した径路を、ひと通り君たちに見せておきたかつたのだ。然し、その結果は、二重に僕を安心させたんだ。予想以上にといふと失礼だが、実際、申分なく君達が愛し合つてゐるといふことを知つたからだ。これなら大丈夫だ。
田代  すると僕たちを試したわけだね。
劉  結果に於てはね。だが、怒(おこ)りはすまいね。友達にもいろいろ種類がある。かういふ友達も、一人ぐらゐ持つてゐ給へ。
田代  いや、いづれ、落ちついてよく考へることにしよう。お礼を云つても間違ひはないと思ふんだが、かう物事が急激にやつて来ると、喜怒哀楽のけじめがつかなくなる。
ぬい子  (突然、長椅子に打ち伏して、声をあげて泣く)
瑩芳  (そのそばに近づき、のぞき込むやうに)チヨンマイホー、チヨンマイホー。
劉  そんなにうれしいのかつて訊(き)いてますよ。

――幕――

底本:「岸田國士全集4」岩波書店    19990(平成2)年9月10日刷発行

青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)より引用

yahoo知恵袋より引用

学校の先生や周りの人で「~かもわからない」という言葉を耳にします。

これはどこかの方言で使う表現ですか?それとも標準語でもこういう言葉の使い方はするのでしょうか?

東京弁では「~かもしれない」の意で「~かもわからない」とは云わないと思います。

この言い回しを多用する人として真っ先に想起されるのは檀一雄です。檀一雄は少年時代を福岡で過ごしました。今、青空文庫で検索をかけたところ、岸田國士がだんとつで頻用してました。次いで太宰治、そして寺田寅彦。

岸田は青年時代に久留米にいたことがあり、太宰は檀の親友、寺田は高校が熊本。

面白いことに、漱石と芥川に用例がほんのわずかあります。漱石は三四郎においてのみ、それも二回だけ。漱石は五校以来の寺田の先生で、三四郎は熊本出身の設定。芥川はずっと東京だけど漱石門下で寺田の後輩。

で、芥川の友人の菊池寛にも一例だけあるようです。

というわけで、九州の方言じゃないかしらん。